長者丸・米田屋次郎吉
江戸の鎖国時代、海難事故でアメリカに保護され、
5年後に帰還した岩瀬船籍六五〇石の北前船
(バイ船)。長者丸は密田家の持ち船で、遭難に
あってはじめて長昆布が薩摩を通じて沖縄に
そして 中国に運ばれていた事実が富山大学の
高瀬重雄先生の研究により明らかになった。

1812年 新川郡東岩瀬浦方生まれ
米田屋次郎吉

  薩摩藩の清国との昆布交易は密貿易でした。幕府に知られてはならないものだったのです。

それで、昆布を薩摩まで運ぶのに、西廻り航路をとらずに、太平洋側を航海するという危険もおか
しました。当然、遭難する船もあり ました。能登屋の持船の北前船「長者丸」 (650石積み、21反帆)は天保9年(1838年)
4月西岩瀬港を出帆し、9月中旬、松前箱館で 薩摩藩向昆布を五、六百石積込み、10月上旬出港しました。南部田之浜で艀テンマ を修理し、 11月上旬に仙台唐丹湊トウニミナト(釜石)に着きます。そして、11月23日に同港を出帆するものの、 朝4時頃大西風に吹き流されて遭難してしまいました。5カ月間、太平洋上を漂流した。

乗組員10名のうち五三郎、金六、善右衛門が死に、
翌年4月、米国捕鯨船ジェームス・ローバ号 に救助されるまで昆布を食べて飢えをしのぎました。
彼等は3隻の船に分乗しサンドイッチ諸島(ハワイ)に上陸〈次郎吉等3人はハワイ島ヒロに上陸〉。

中国の広東出身者の家や、ホノルルの牧師の家などで世話になったり、ある時は砂糖きび畑で 過酷な労働に従事したりした。また当時のハワイ国王カメハメハ3世とも謁見もしている。

10人の乗組員のうち米田屋次郎吉(追廻=雑用係)、鍛冶屋太三郎など6人がハワイで生活し、 その間次郎吉は、その土地の地形、動植物、人々の暮らし方、建造物、防衛体制のほか、 見聞した印刷工場、砂糖きび工場、製塩所、屠殺場までも細かに記録し図解している。


そこからカムチャッカ・オホーツク・アラスカのシイトカへと送られました
1843年(天保14年)
ロシア船によって択捉島に無 事帰還することができた。日本へ送還する船が決まり、シイトカの ロシアアメリカ商会の支配人アードフ・カーロウィ チの家で奥さんの接待でお別れパーティが行われ、 餞別に大きな柱時計を貰う。この時計は帰国後、富山藩の親藩である前田藩の殿様前田斉泰公 に贈呈された。この時の次郎吉ら4人の体験談は『時規(とけい)物語』『蕃談(ばんだん)』などの 書物にまとめられたが、外国語を多数覚え、記憶も確かだった次郎吉の情報量は際立っていたと いう。次郎吉は教育を殆ど受けていなかったが、好奇心旺盛で記憶力抜群、外国語の習得も早く、 しかも見たものを正確に描き、図解までもする類稀な才能の持ち主だった。その上、大の力持ちだった。

『蕃談』は幕府の学者(古賀謹一郎)によって書かれてものであるが、好意的に外国事情を述べているため 、鎖国下の日本では一般に知られることを恐れて公開されなかった。
もちろん匿名で書かれた。
井伏鱒二の小説に『漂民宇三郎』があるが、 かなりの部分を『蕃談』に拠っていて次郎吉も登場するが、一人だけ帰国せずハワイに残った宇三郎 の聞書きという形で描かれていて、この宇三郎は架空の人物である。

吉田精一はかつて『ジョン万次郎』が万次郎中心の物語であったのに対して『宇三郎』が乗組員全員 の運命を扱う物語であるとした。

長者丸