KAWAIAHAO墓地のこの墓の近くに埋葬された
1838年金華山沖で漂流後1839年4月24日アメリカの捕鯨船ジェームスローバー号に7名救助される。9月上旬ハワイのヒロ港に、平四郎、次郎吉、金蔵の3人がここに上陸。3,4日後マウイ島につく。3人は2週間後ワイヘで八左衛門、七左衛門、太三郎、六兵衛の4人と落ち合う。

吉岡平四郎が病死 ビンガム牧師の教会の隣接墓地に埋葬する。 墓標は高さ4尺、巾1尺あまりで表面は白く塗られ、次郎吉がカタカナで書いた
『越中の国富山木町浦。 直船頭吉岡屋平四郎 五十三歳、このたびこの所に落ち来て、ながなが病気につき、この所にて病死におよぶ.』と下記に記す

2009年12月このKAWAIAHAO墓地を訪れたが、木製のため朽ちてしまって、発見できなかった。しかしこの辺に埋葬されたと言う場所は確認できた ビンガム牧師の子供の墓の隣ということなので・・・。

次郎吉に関すること





       ボールドウイン牧師

次郎吉はマウイ島のラハイナでボールドウイン牧師に大変世話になる。
後に1840年次郎吉から聞いた日本のことをポリネシア新聞の一面に載せる

ポリネシア新聞には日本人の数の凄さについて書かれてある、また金と銀の交換レートについても
詳しく書かれている。1の次に165個のゼロがつく数を表すことができるとのことも書かれてある。
後にペリーが開国を迫ってくるのはこの新聞を読んだからと推測される。銀が5枚と金1枚と交換、アメリカは銀が15枚と金が1枚と交換していたので
日本に行けば金が一杯あると・・・・。数字の2をNe,10をZu,11をZu ich,15をZu goとこれは越中弁です。