生地の名水めぐり 黒部の地域情報

◆前名寺天満宮(学問の神様 菅原道真父子の軸があるお寺)

前名寺天満宮 当山の鎮守天満大自在天神は菅公ご父子のご真筆にして、尊い由緒ある宝物なり。
人皇59代宇多天皇の右大臣 菅原道真公は左大臣藤原時平の讒言により九州大宰府に流される事となる。
道真公の嫡子が父君と別れるに当り御姿 を画かれたのであるが、父君はその情を哀れみ、自ら筆をとり、お姿の上に日月と常に寵愛されていた梅松を画かれ、 且つ示して曰く「日月は天地の父母なり、梅は寒苦を経て清香を発し、松は千年を経て尚、 志節道義を失わず」と 諭され、道真公は別れを惜しんで大宰府に立たれた。
現在天神様の絵に梅松を画くのも、この謂れからである。
 その後その尊像は足利尊氏卿の御手に渡り、元弘時代、坦馬の住民朝倉広景卿が足利方に属し、武功の恩賞として 延元元年(1336年)越前の守護に任ぜられ同時に足利家に伝わるこの一軸を越前城の鎮守として祀るべしと、尊氏卿より朝倉家に賜った。 天正元年(1573年)八月十三日、広景卿の後裔義景卿が織田信長勢に攻めわれ、江州田上山を立ち退きし際、士卒悉く途中で討死し 義景卿の身辺に危難漸く切迫した。
この時当山開基初代田村善名是輝は嫡子是法と力を併せて敵兵を払い、主君を擁して漸く一条谷に帰城。更に賢松寺に撤退されたが 衆徒散乱、或いは士卒変心して今はその頼み難きを知り、義景卿は腹心の田村父子に対し我が命既に窮れり、汝等これより神仏に帰依し 家伝の日月天神軸を守護して越中に下り、霊地に一寺を建立して予が願望成就を計れと云いつつ一軸を授けたまい、はかなくも自刃されたのである。
即ち天正元年(1573年)八月廿日御年41歳なり。田村父子厚く葬り、主命を奉じて当生地村へ下り、時を待つと雖も乱世の事とて容易に御御堂を建立し難く是輝は嫡子是法に託して卒す。即ち天正十年(1582年)正月三日なり。
是法、主君の願望と父の遺言を日夜思いつつ只菅天満宮の建立を祈念し幾多の辛酸をなめ、天正17年(1589年)魚津常泉寺代四世 琴峡文宅大和尚を請して生地村宮川町に善名寺(後に前名寺と改称)を建立せしが、人家稀にして帰依する者少なく大堂とならざるを 憾みつつ寛永五年(1628年)6月22日、齢85歳にて逝去す。
田村初代是輝念願以来、星霜272年を経て弘化2年(1845年)に及び11代前名惟寧(これやすし)の時、金沢天徳院第21世 末徹黙笑禅師(すえとおるもくしょうぜんじ)を法地開闢(かいびゃく)として請し、現在地に日月天神の軸並びに天神象を安置し奉る。 こぞってご参詣賜り、その功徳の広大無辺を感得し、学・文・諸願成就を得られん事を願う次第なり。(天道山前名寺守塔敬誌より)

前名寺の由来

田村家二代前名是法の時、前田公が田村家へお立ち寄りの際、善名の善を前田公の前に改める様沙汰があり、前名と改名す。従って善名寺 を前名寺と改められ、同時に寺紋として梅鉢紋(加賀梅鉢)を賜る。

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